資産配分のことです。
運用する資金の総額を株式・債券・投資信託、現金、不動産などの各種資産に配分することをいいます。
商品先物取引の遺骸と副葬品がこなごなにされてマウンドCの頂上に向かう通路にも撒布されている状態であることは、民族誌的な解釈からも外部からの侵略者が聖域とされる神殿を荒らして略奪することと解釈されることからも、そのような暴行があったであろうことを想像させるのに十分であるように思われる。あくまでも大まかな状況証拠でしかないが、後期ウィルバンクス相のエリートたちは、暴力的な破壊による結末を迎えたと思われる。エトワーの住民は、エルナンド・デ・ソト(Hernando de Soto)と彼の軍勢が町を訪れる直前までエトワーに戻ることはなかった。
ブリューステール相(Brewster Phase, 1475年 - 1550年)では、エトワーは、D, E, Fという小マウンドを造成し、マウンドBの頂上部も再利用して、再び単一の首長制国家としてよみがえった。エトワーとその西に位置するOostanaula河谷にまたがる二つの政体を結合する勢力をもっていたと考えられている。この時代のエトワーについては、デ=ソトによってItabaの町として記述されている。Larsonによって調査されたブリューステール相のデータには、鉄斧や鉄の釘、鎖よろいの断片、剣の柄やヨーロッパ式の回転ひき臼の一部などが遺物として確認されていることをみることができる。
「鳥人」が刻まれたローガン=プレートのひとつ。エトワー、マウンドC出土。エトワーのマウンドCについて知ることは、エトワーの歴史そのものについて知ることになるくらい重要である。マウンドCについては、大きく3回の調査が行われてきた。
アメリカ民族学局(Bureau of American Ethnology)のジョン=ローガンによる調査
投資信託のアメリカ民族学局(Bureau of American Ethnology)のサイラス=トマスのもとで1884年にジョン=ローガンが行った調査である。ローガンはマウンドCの頂点部分の一部を発掘して11の埋葬を発見した。ローガンがマウンドCの副葬品の性格が注目すべきものであることを最初に明らかにしたのである。ローガンはマウンドCで2枚の打ち出し細工の銅板を発見した。発見者にちなんでローガン=プレートと呼ばれるこ銅板細工には、「鳥人」(Birdman)と呼ばれるモチーフが刻まれており、後にジェームス=ブラウンによって「明けの明星」を表現するものとされた。
W.K.ムーアヘッドによる調査
外貨預金に続いて1925年から1927年にかけてピーボディー財団の援助でW.K.ムーアヘッドがマウンドCの頂上部を大きく剥ぎ取って調査を行い、新たに111の埋葬を発見した。それらの墓の中にはおびただしい貝製の「のどあて」(Shell Gorget)、石刃、石斧をはじめさまざまな銅製の冠の破片が発見された。しかし、ローガンにしろムーアヘッドにしろ今日の考古学的な記録保存法の水準から考えれば彼らの調査は叮嚀さに欠ける、不十分なものであった。
Lewis H.Larson Jr.のジョージア州歴史協会による調査
1954年から1967年にかけてLewis H.Larson Jr.がジョージア州歴史協会として丁寧な記録保存調査を行った。 Lewis LarsonがマウンドCの調査を行うにあたって直面したのは、ローガンとムーアヘッドによるマウンドCの頂部の発掘によってあらされた部分を取り除いて調査をするという困難さであった。そのような悪条件下であっても、Larsonの精密で叮嚀な調査によってあまり注目に値しない平凡なデータとともに新たな埋葬に関する注目に値する成果があがっている。かなり大きな範囲で荒されていないマウンドCの基壇とその側面部分を確認したのである。Larsonはさらに244の埋葬を発見し、いわゆるサザン・カルト関連の儀礼に用いられたおびただしい副葬品を発見した。Larsonの調査成果で最も注目すべきものは、埋葬15から出土した彩色の施された2体の大理石製の人物座像である。また、Larsonは、マウンドCが7期、つまり7段階で築かれてきたことを明らかにした。最初の3段階は、前期ウィルバンクス相に相当し、一段階ごとにマウンドが築かれると、その周囲には防御用の壁が築かれた。埋葬されたのは、単純に掘りくぼめた墓坑か石囲いの墓であり、各時期ごとにマウンドの頂点か側面付近に埋葬された。副葬品の豊富な墳墓がマウンドの頂点部分につくられ、埋葬されたことが明らかにされている。後期ウィルバンクス相で、さらにマウンドCは4段階で造成される。そのたびごとにマウンドの周囲には防御柵が設けられた。マウンドの頂点部分は放棄され、立派な墓のほとんどが各段階ごとに北側裾野部分に沿って造られた。前段階のマウンドに盛り土がされて新段階のマウンドが築かれ、後期ウィルバンクス相の初頭にあたる4段階の時期と中葉にあたる6段階の時期に北側に造り出しが設けられた。埋葬は、単純に掘りくぼめた墓坑か丸太材で囲んだ墓のいずれかであった。マウンドが築かれた段階、過程ははっきりしているが、すべての埋葬がどの段階に属するものであるか関連付けるのは困難である。しかし、Larsonによって前期ウィルバンクス相の埋葬はマウンドの頂点部分に位置していること、前期ウィルバンクス相のマウンド側壁を囲うように同時期の防御壁の溝を検出することができたこと、後期ウィルバンクス相の埋葬は、最終段階(第8段階)の造成にともなって明確に同定することができ、造り出し部分からも埋葬を検出できたため、おおまかな時期区分は可能になった。
CFDの空間の使われ方は、エトワーの階級構造について手がかりをあたえてくれる。Lewis H.LarsonとJeffery Brain及びPhilipsは、マウンドCの最終段階の環状の埋葬は、他のものとはっきり区別される別個のもので、埋葬がグルーピング可能であると考えた。BrainとPhilipsは、マウンドCの四隅と北側のすそにあたる部分の墓は他の墓とは別個のものと区別した。前期ウィルバンクス相の埋葬は貝製「のどあて」の文様によっていくつかのグループ分けが可能のように思われる。 ハイタワー=スタイルと呼ばれるあたかも高い塔の上に動物や人物が向かい合ったりしがみついたり、正面を向いたりするモチーフが刻まれたもののうち、七面鳥のテーマと呼ばれるものが出土する墓と環状、巴文のような三叉の渦、十字状のものが出土する墓とに区別できる。アダム=キングはこの貝製「のどあて」の文様に示される集団は、親族か何らかの同じものを信仰する集団であると考えている。ハイタワー=スタイルのうち、人物像を刻んだ貝製「のどあて」は、七面鳥の集団と幾何学文の集団の間を横断的に分布しており、別の種類の集団を示していると考えられる。
不動産投資は、四つに区分でき、それはマウンドCを四つに区分している。五つ目のものが後期ウィルバンクス相の埋葬群である。貝製「のどあて」をふくめてより多くの遺物の形状やその他の性質などで分類を行えば、より複雑なパターンがあることを解明できることが期待される。すくなくとも埋葬の配列や貝製「のどあて」の文様の分布はマウンドCの埋葬がいくつかの群に分類できることを明らかにしている。この結果は、ミシシッピ文化中部地域(Middle Mississippian)におけるエトワーのエリート階層が古典的な円錐形の階層クランモデルのような単純なひとつの拡大家族によって構成されているわけではないことを示している。エリート階層が親族を基盤とする共同体の集まり以外のものの代わりにそれらの集団がお互いに尊重されるようにする何があったのかを考える必要がある。そのようなグループを横断するようなグループは、異なった種類の地位を表す集団かダンスや医療といった特殊な行為を行うための集団である可能性も考えられる。
メサ・ヴェルデ遺跡の存在は、1874年には知られていたが、本格的な考古学的調査の契機になったのは、1888年に 当地の牧場主リチャード・ウェザーリルによって「クリフ・パレス」が発見されて以来、ウェザーリル兄弟が一般調査で108ヶ所に及ぶ断崖をくりぬいた集落を確認してからである。 1891年に、考古学者であるジェズ・ウオルター・ヒュークス(J.W.Fewkes)とスウェーデン出身の 地質学者グスタフ・ノルデンシェルド[2] によって初めて本格的な発掘調査がされた。
この地域は1906年7月29日に国立公園として制定された。w:National Park Serviceによって管理されているすべての歴史的地域と同じく、この公園は1966年10月15日にw:National Register of Historic Placesの一覧に記載された。ここは1978年9月6日に世界遺産 (文化遺産) に登録された。
メサ・ヴェルデ管理地区 は1987年5月29日にアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定された。