■アセットバック証券について

 米国で発達した債券で、担保付住宅貸付債権を裏付けとする証券(MBS、モーゲージ担保証券)をはじめ、自動車ローン、リース・クレジットカードなど、各種の債権や商業用不動産などの資産を裏付けとして発行される証券の総称です。 から、この地に農耕民であるアナサジ族が住み始めたと推測されている。アナサジ族は、8世紀ころまでバスケット・メーカー文化と呼ばれる独特なかご作りで知られる文化を築いていたが、9世紀ころからキヴァという儀式を行う施設を伴う日干し煉瓦の壁によって区画された集落遺跡を築くようになる。これをプエブロ文化と呼び、 12世紀頃になると、外敵の襲来に備えた、本格的な「岩窟住居」を作り、そこに住み始めたと考えられている。 同時期の遺跡としては、ニュー・メキシコ州北西部の半円形の壮大なプエブロ・ボニート遺跡を中心とするチャコ・キャニオンの遺跡群が知られている。その他にも、ユタ、コロラド、アリゾナ、ニュー・メキシコ4州の州境が1点に集まるフォー・コーナーズ周辺にはコロラド州のメサ・ヴェルデをはじめとして、アリゾナ州のキャニオン・デ・シェイ、ユタ州のホヴンウィープなど数多くの遺跡群が見られる。ユタ州側にあるホヴンウィープ国定公園の遺跡群は極浅い谷あるいは涸れ沢の縁の平地に散在する形をとる。メサ・ヴェルデの住居遺跡がメサ上に少ないのは保安のための他に農耕に適したメサ(台地)上を農耕に優先したとのこともある。アナサジ族のこのような日干し煉瓦による壮大な建物が建てられた時期はプエブロIII期と呼ばれる。14世紀になると、とつぜん放棄されたと推測されており、謎となっている。 なお、アナサジとは、アナサジ族が消滅もしくは移住した後に同地域に流入し、現在も居住する先住民であるナバホ族の言葉で「古(いにしえ)の敵」あるいは「古の人々」を意味するが、現在は「先プエブロ[3]」を意味する英語の "the Ancestral Puebloan" という表現を使う方向にある。 といわれる「岩窟住居」による集落が公園内最大の遺跡である。200室ほどあり、一番高いところの高さは、4階建て相当にもなる。さながら高級マンションのようでもある。クリフ・パレス、ロング・ハウスなど主要な遺跡コンプレックスへの立入りは公園レンジャーの引率によるツアー(有料)のみで許されている。シーズン中は混雑するので朝一番にビジター・センターで申し込む必要がある。 ニューメキシコ州とコロラド州に住むプエブロ族は、現在もこのような巨大集団住居からなる大集落を有している。 アメリカ合衆国の国立歴史公園でユネスコ世界遺産のひとつである。アメリカ南西部地方で最もプエブロ文化の遺跡が濃密に集中している地域である。チャコ国立歴史公園は、ニューメキシコ州の北西、アルバカーキとファーミングトンの間にある涸れた険しい渓谷の中にある。メキシコ北部にある古代遺跡を含めてチャコ国立歴史公園は、アメリカ合衆国でもっとも魅力的な文化的歴史的遺産のある区域として保存措置がとられている。チャコ・キャニオンは、紀元後900年から1150年にかけてプエブロ文化の最大の中心地であった。チャコ・キャニオンの人々は、砂岩を切り出し、材木を遠方から運んできて19世紀になるまで北米で最も壮大な建物をもつ15か所の遺跡を築いた。チャコ・キャニオンで天体観測[1]が行われていたことは、Fajada ButteでみられるSun Dagger(「太陽の短刀」)などから理解できる。これは、春分、秋分に小さな同心円の中央、夏至に大きな同心円の中央、冬至に同心円の両脇といった決まった位置に短刀のような楔型に日光を映す岩絵が刻まれている[2]ものである。チャコ・キャニオンの建物の多くは、何百年、何世代にもわたる天体観測の技術的な蓄積によって、太陽や月の周期が設計に取り込まれてきたのかもしれない。1130年から始まる50年に及ぶ旱魃という気候の変化によってチャコ・キャニオンの人々は、ほかの場所へ移住してしまい、結果的に彼らが築いたプエブロの集落は放棄されることになった。フォーコーナー地方の乾燥した厳しい環境のなかにあるにもかかわらず、チャコ・キャニオンの遺跡群は、旅行者によって傷められるおそれがでてきたことから、公式にFajada Butteは閉鎖されることになった。チャコ・キャニオンの遺跡群は、ホピ族やプエブロ族にとって神聖な先祖の地であって、歴史上の出来事としてのチャコ・キャニオンからの移住やこの地に対する精神的なつながりは、口承伝承によって語り継がれている。公園内の遺跡を保護する活動は、プエブロ族の信仰との葛藤とからんでいるにもかかわらず、民族の遺産を継承する人々は、自分たちの知識を提供し、チャコ・キャニオンの文化遺産に敬意を払うことを国立公園局とわかちあいつつ活動している。 ipoは、サン・ファン盆地の中にあり、壮大なコロラド高原上に位置する。チャコ・キャニオンの周りには、西にChuska山地、北にサン・ファン山地、東にサン・ペドロ山地があって囲まれている。古代のチャコ・キャニオンの人々は、うっそうと茂るカシ、ピニョンと呼ばれる松の一種、ポンデローサ松の森林から、木材や食料などの資源を確保していた。チャコ・キャニオンの渓谷自体は砂丘や周囲に連なる山々の尾根に囲まれ、おおむね北西から南東に流れている。また渓谷の周囲には、頂部がたいらなメサと呼ばれる巨大な岩山が点在している。Rinconsとして知られる南西の崖面は大きく開いている。崖面と崖面の間の地形はろうと状になっていて、風雨にさらされ、浸食のスピードがはやい。主要なチャコ・キャニオンの集落、たとえば、プエブロ・ボニート、ヌエボ・アルト、キン・クレトソは標高1890mから1963mの間に位置する。チャコ・キャニオンの谷底は、二つに分けられ、北東に向かって1kmにつき6mというゆるやかな角度で降っていく。また、ほんのわずかであってひんぱんなものではないが、小川の流れがみられる。チャコ・キャニオンの最大の帯水層は、非常に深い場所にあるために古代のチャコ・キャニオンの人々がそのような地下水を掘り出すのは不可能であった。ほんのわずかの小さくて浅いところにある地下水から湧き出る泉から水を確保してきた。地表で確保できる水は、一時的な豪雨によっていくつかの小川を流れていく水以外は、事実上皆無に等しい。 個人向け国債のFajada Butte遺跡の景観。年平均3回か4回の吹雪がある。非常に乾いた灌木地か砂漠に近いステップ、涸れた渓谷のような乾燥した土地は、年平均200ミリしか雨が降らない。一番多い時でも231.1ミリという記録である。チャコ・キャニオンは、南や西のほうにある山脈のふもとにある。そしてそれはいわゆる「雨の陰」といって山脈の風下側にあたり、著しく降水量が少ない地域にあたり、結果として湿り気も非常にすくなくなる。四季は一応存在し、7月から9月の間が最も降水量が多くなり、5月から6月ごろがもっとも乾燥する。チャコ・キャニオンの周囲にある山脈を登っていく豪雨をもたらす雨雲は夏と冬に標高の高い場所で雨を絞り切るかのように降らせるため、風下側あたるチャコ・キャニオンでは、雨が極端に少ないということになる。ときどき北回帰線周辺の熱帯性気候の範囲が北側にずれることがあり、数年間にわたって異常に降雨ガ少なくなる。チャコ・キャニオンは、気温変化が激しく、氷点下39度から摂氏39度のという60度を超える気温変化がある。チャコ・キャニオンで霜が降りない日は150日に満たない。この地方の気候はよく雨が降る年がある一方で極端な日照りで雨が降らないこともある。チャコ・キャニオンは南太平洋のエル・ニーニョ現象の影響をもろに受けて気候が極端に移りかわる。 資産運用の遺跡分布図考古学者は、サン・ファン盆地に最初に人が訪れたのは、古期の狩猟採集民であると考える。クローヴィス尖頭器をもつ移動性の狩猟民は紀元前10000年前後からかわるがわる南西部地方を訪れた。紀元前900年にアトラトル洞窟に人が住んでいたことが明らかになっている。チャコ・キャニオンに住んだ古期の人々の足跡は、そういった狩猟民の遺跡よりも少なくわずかしか確認されていない。紀元490年になると古期の人々の子孫は、いわゆるバスケットメーカーとしてチャコ・キャニオンで農耕を続け、シャービックエスチー(Shabik’eshchee)遺跡やそのほかの集落で竪穴式住居に住んでいた。バスケットメーカー文化の時代には、チャコ・キャニオンの人口はわずかであったが、紀元800年ごろからさらに発展し、集落が三日月状に造られ、4つから5つの居住用に用いられた部屋ごとに組み合わされるようにキヴァという半地下式の宗教的な儀式を行うための大きめな空間が設けられた。こういった構造はプエブロ文化の初期に見られる特徴である。850年になると古代プエブロ人の人口は増えて、急速に居住範囲はひろがり、砂岩を用いたプエブロの集落をつくって集住していくようになる。このころのプエブロに住んだ人々をナバホ族によって借用されたウテ語族の概念では、「古代の人々」ないし「敵の先祖」という意味の「アナサジ」という名で知られるようになる。